ヤング・エッセイ

スモールワールドにビッグオーシャンな随想録です

靴の夢

「世界は完全に詩的な場所である。」

 

と、いう文章があった。穂村弘さんの「世界音痴」という本の一節にあった。

 

今日、靴の夢を見た。見たこともない、ふしぎな集落があって、ふしぎな間取りの家があった。低くて横に長い家で、壁面は、藤かごみたいに、すかすかだった。道は、黄色っぽい土で、かためてあった。大勢で、その家に「見学」にとお邪魔した。おばあさんが住んでいた。玄関で靴を脱いだ。何組もの靴が並んだ。

家には、意外にも地下があった。いや、その家は坂の上にあったので、下の階も上の階も、それぞれ外と地続きになっていて、それぞれに玄関があった。

下の階に降りて、「見学会」はもう終わろうとしていた。いつの間にか、誰かが私たちの脱いだ靴を、下の階の玄関に持ってきてくれていた。みんなそれぞれ、靴をはいて、外に出た。だけど、私の靴だけがなかった。ドクターマーチンの、茶色いローファーを履いてきていた。

高校時代の友人が、「あったよ。」と言って渡してくれた。「リーガルだよ。」とわざわざ教えてくれた。「リーガルだっけな。」と思って一旦受けとったけど、「ドクターマーチンだった。」と気が付いて、また探しはじめた。見つけたと思って、手にとったら、生地がスエードだった。私の靴の生地は、スエードではなかった。また、見つけたと思って手にとった靴には、私の靴に付いているはずの、リボンのような飾りが付いていなかった。

一緒に「見学会」に来たみんなを、外で待たせていた。「ごめん、ごめん」と言いながら急ぐけれど、全然見つからない。そのローファーは、お気に入りだったし、安いものじゃなかったから、どうしても見つけないと気が済まなかった。

誰か分からないが、そこの集落のおじさんが、車に乗せてくれたので、それで、外に探しに行った。いつの間にか日が暮れていて、あたりは暗かった。

車で走っていると、坂の上から、深紅のロングブーツがひとりでに歩いてくるのが見えた。ブーツは止まることなく、こちらに向かって歩いてきたので、私たちが乗っている車に轢かれてしまった。その後にも、別のブーツが二組、ひとりでに歩いていた。

「どうしよう、私の靴もどこかを歩いているのかもしれない・・・。」

急に不安が増した。それまでは、「どこからかひょっこり出てくるさ」と思っていたのに、靴がひとりでに歩いているとしたら、見つけるのは至難の技だ。

私は落胆したが、もう一度あの家を探そうと思って、戻ることにした。

戻ると家の下の階では、中古の靴が売られていた。低くて横に長い靴棚が、壁にずーっと続いていて、たくさんの靴が並んでいた。私は「まずい」と思った。間違えて売られているかもしれない。私はそこの店員さんに、「すみません、靴を忘れてしまって、この棚を探してもいいですか。」と声をかけてから、靴を探した。

目が覚めて、「あの靴お気に入りだったのに・・・」と悔やんだ。しばらくして、夢であることを思い出した。ドクターマーチンのローファーは、玄関の靴箱に入っている。

 

と、これが今日見た夢で、

自分の夢ながら、やけに詩的な例えだと思った・・・。私は現実に、いろいろ、探していて、人を待たせていて、ぐずぐずしている。

一体どうしてこんな、妙な映像をつくれるのか、もはや夢というものに感心する。ほんとに、どうなっているんだろう。

女小僧

前に書いた記事に、自分のことをなんとなく「女小僧」と書き表したが、ふむ、なかなか言い得て妙である。

 

一体どんな文脈でそんな事を言ったのか思い出せないが、きのう母親と台所でお好み焼きの準備をしていたときに、

「私は、男でもないし、子どもでもないけどね。」

と、言った。すると母は、

「じゃあ、大人の女じゃない?」

と、言った。

「ほ、ほんとうだ!」

と、めちゃくちゃ驚いた。なぜなら、自分と「大人の女」の間には、あまりにも隔たりが・・・あった。悔しいがそれが事実だった。

 

男じゃないし、子どもじゃないのに、その反対にあるであろう「大人の女」では、明らかにない!こんな数学の問題があった気がする。そう、これはきっと数学的ななにかだ!数学的ななにかの欠如によって、私は男でも子どもでもなく、大人の女でもない、もはや落ち着く場所のない何者かになってしまったのである。わかった、そうだ。なぜなら、「男ではなく、子どもではないもの」=「キャベツ」でも別に成り立つではないか。つまり、私は、「大人の女」ではないが、「キャベツ」に代わる何かであると考えて良い。

 

なにはともあれ、この母とのやり取りは衝撃だった。「男ではなく、子どもでもないものってなーんだ?」と問うと、「大人の女」という解が求められたのである・・・。さらに、実際にはその解が自分に適用できなかったのである・・・。人間の大きな種別である「大人」「子ども」「男」「女」では全然足りなかったのだ・・・。

 

だとしても、いつかは「キャベツ」の代わりに「大人の女」になってみたい。(いや、キャベツではないが)

一体なんだっていうんだろう。

犬ネットワーク

夕方4〜5時頃のベッドタウンは、犬を連れた人がとても多い。

 

連れているのは、だいたい女性で、かくいう私も女だ。独特の親近感があり、また、実際、「犬ネットワーク」的なものを形成していた。

それを形成している「層」からして、「ママ友」っぽい雰囲気があり、露骨に「犬ネットワーク」を行使している女性とは、反りが合わず、私はすかさず「犬の散歩を任されている子ども(被扶養者)」の仮面を被ってしまう。もう21なのに。

すると、彼女たちは、フリーダイヤルで固定電話にかけてくるコールセンターの人々がそうなるように、目前に1人分の人間の存在を認知出来ず、通り過ぎたなにかモヤのような「人影(私)」と、その横を歩く「犬」に微笑みかけるだけで、スルーしてしまうのである。と、私は思っている。やり手のCIA並みに、彼女たちのネットワークに、名も顔も残さずにやり過ごすことができる。と、私は思っている。

だから、先日、スルーすると見せかけて「こないだマムシに噛まれてワンちゃんが亡くなったそうだから、草むらには気をつけてくださいね」と声をかけられたときには、ドキッとした。そして、「これが選挙権を有するということか・・・」と思った。

まあそもそも、それが「犬・ネットワーク」であるからには、連れの「オスカーちゃん」は否応無く頭数に入れられているのかもしれない。ちなみに「オスカーちゃん」の犬種は、なぜか近頃、この街で数を増やしている。もちろん、繁殖という意味ではなく、この種の定住者数のことである。

そして、街の景色にはいくつかのパターンがあるようで、「しば犬」を連れているのは、だいたい「リタイア後のオジサン」だった。この「しば・ネットワーク」は、互いに干渉はせず、テレパシーのようなもので暗黙のうちに形成されており、深いため息のように、どこまでも静かでしかし強い「引き」を持つのであった。

 

先日、散歩の途中で、黒いラブラドールを連れた夫婦と少し言葉を交わした。昔ラブラドールを飼っていたことがあるので、親しみ深かった。ちょっとだけ触らせてもらった。つやつやしていた。奥さんは、明るい人だった。

「私もジャック(犬種:ジャック・ラッセル・テリア)、欲しかったのよね。運動量、すごいでしょ。」

「そう、ですね。・・・激しいです。」

はははと笑い、別れた。標準語だったな、と思った。

 

私は、知らない人と話すのが、けっこう好きなのだ。服屋の店員さんとか、橋の欄干に手をかけて突っ立っている人とか。もう少し歳をとったら、見境なくしゃべりかける、ちっちゃいおばちゃんになってしまうかもしれない。「おばちゃんになる」と文字に起こすと末恐ろしい感じがあるな・・・出来ればなりたくない。別に希望しなくても勝手にそうなるようなので、抵抗する分には自由か。

 

今の私にとって、身分を語るのは気が引けた。

中途半端に身分を知られていると、それについて現状を言わなければならなかったし、その現状について、あれこれと評価されることになって、面倒なのだ。それは、私の現状が、身分に対して誰からも評価されない現状だと、分かっているからだが。

「家で犬を飼っていて、時々散歩に連れて行く私」というのは実に率直で人畜無害で、かわいらしい存在であり、私について それだけを知っている「知らない人たち」は、そんなかわいい私の存在を、かわいいまま居させてくれるのである。

散歩の落書き

前回の散歩の話の続き。オチも山も目的も意味もなにもない文章なので、「散歩の落書き」だけど、こう書くと、散っているわ落ちているわで、気が抜けすぎである。

 

トランペットの音は、あのあと止んでしまった。池で遊んでいた親子が、帰り支度を終えて、こちらへ向かって歩いてきた。彼らのやり取りが聞こえてくる。彼らの生活を盗み聞きする。けれども、21歳で、学生で、扶養されてるけど、子どもでもなく、結婚を考えたこともなく、けど独身という言葉で言い表す「ほど」でもない、女小僧の私には、およそ遠い彼らであった。

彼らが高台にある駐車場へと階段をあがり、私の方から姿が見えなくなってから、しばらくしてトランペットの音が消えた。たぶん、「ここなら誰にも姿を見られることなく俺の音楽を空いっぱいに吹き鳴らすことができるぞお」と踏んでいた余生を楽しむオジサンは(オジサンかどうかも知らないが)、現役の親子3人が下から立ち現れて、いそいそと自動車に荷物を積み込みはじめたよこで、音を吹き鳴らすのには気が引けたんだろう。

「帰り」の気配のなかで、私もその場を後にした。その先は、少々荒れた畑があって、道が自由に曲がっている。高低差のある田畑の合間を、ちょうど縫うようにして小道がずーっと続いている。この道を辿ると、大きなため池があらわれる。去年あたり、この池の前でめそめそ泣いた気がする(どうしてかは忘れた)。鳥の鳴き声とか葉っぱのすれる音、ざわざわ音がいっぱいに鳴っていて、その真ん中で、池がずーんとまわりの景色を飲み込んでいた。電話みたいな鳴き声の鳥がいて、珍しい鳴き声だったから、よし、覚えておこうと思ったが、これもまんまと忘れてしまった。忘れっぽいのだろうか。

つかれていたので、その場でしゃがんで休んだ。なんとなく池を眺めていると、じっと池の周囲を取り囲むフェンスと、その奥にゆらゆら揺らめく水との距離が、狂って見えてきた。いつの間にか立体視していたようで、池がぼーっと一歩手前に浮き上がった。しばらくそれで遊んでいると、人の気配がしてびっくりして立ち上がった。

農家のおば(あ)さんが、4〜5個のトマトを入れたバケツを片手に下げて、こちらに歩いてきた。おば(あ)さんは、連れていた犬を見て、微笑んだ。私は、こんにちはと挨拶して、通り過ぎていくのを見送った。近所の人にトマトをお裾分けに行くんだろうか。濁った半透明のバケツのせいかなんなのか、あんまり美味しくなさそうなトマトだなと思いながら、少し時間をあけて、おば(あ)さんと同じ方向に歩きはじめた。

道が竹やぶに入り、しばらく歩くとおば(あ)さんに追いついた。おば(あ)さんは、道の向こうからやってきた犬を連れた若い女の人と、親しげに言葉を交わしていた。顔見知りだろうか、私は勝手に、そのおば(あ)さんは、あまり付き合いが広い方じゃないだろうと思っていたので、なんとなく残念だった。