トランペットの音
こないだ、犬の散歩の途中で、トランペットの音を聞いた。
場所は、「じゃぶじゃぶ池」のところである。どこだよって感じだが、地元の山間にある、めちゃくちゃ浅いプールみたいなものだ。公園になっているので、出入りは自由だ。そのあたりは、もはや散歩以外に来ることはない。小学生の頃の遠足で来たことがある程度で、その頃はもう少し水が汚くて、「湿気た場所」という印象だった。だから、それはもう、「湿気た幼少の記憶」を象徴するような場所になっていた。
昔、大型スーパーで売ってるような、おもちゃ付きお菓子が欲しいのに、母親が干し芋とかせんべえばっかり買ってくるから内心「ちっ・・・湿気てんな・・・」と思っていた、とか、昔、夏休みのラジオ体操で、終わったあとに棒付きの飴をもらって嬉しかった、とか、クラスメイトたちと広場で隠れ鬼をしたときに、幻のお爺さんと会話をした、とか、そういった記憶と一緒にすでに仕舞われた場所のひとつだった。
こういうのを、「感傷」と呼ぶ。まさしく「懐古」の記憶、まさしく「郷愁」である。もはや自分の身に起こったことだと、思えないほど遠くにあるのに、大事に「しちゃっている」ものたち。
その「じゃぶじゃぶ池」に来ていた親子連れ3人を、遠目に見ていた。もう夕方だったので、2〜3歳くらいの女の子は、遊び終わって両親といっしょに帰る準備をしているところだった。
他に遊んでいる子どももいなかったので、お母さんとお父さんと3人だけで、「湿気てんなあ・・・」と思いつつ、なんかその3人だけの閉ざされた世界のなかに、途方もなく続く光があるように見えた。こんな平日の夕方に、あそこのお父さんは不定休なのだろうかなどと考えつつ。
夏の団地にあぶれ返る蝉の声に、身を投じたときに生じる「あの」感情である。いや、冬か春かに、となりの部屋のテレビからたまたま「蝉の鳴く音」が聞こえてくるだけでもいいし、夕焼けをバックに踏切のカーンカーンが鳴り響くだけでも十分なのだが。
私が過去の記憶から、遠く隔たれているように、彼らと、犬を連れた成人女の私の間も、50メートルばかしの距離とフェンスで隔たれていた。
いつから鳴っていたのかはわからないが、そのときにトランペットの音が聞こえていた。その音は「し」と「れ」と「ふぁ」が多かったと、頑張って記憶しようとしたが、帰宅後に手持ちの楽器で再現しようとしてもうまくいかなかった。
一体どこで誰がふいているのか、気になってそのへんを探した。じゃぶじゃぶ池の隣にある建物の二階(それが最上階)の窓とか、建物の裏を確認したが、見つけられない。その道の先は、山と畑しかなく、家があるわけでもなかった。
池を左手に、右手に高台の駐車場(たぶん)があったから、きっとそのうえでオジサンが得意げに吹いているのだろうと想像した。この辺が校区にあたる中学校は、吹奏楽部が有名だったが、こんな山間の高台で、人目(ほとんどない)も気にせず高らかにトランペットを鳴らす中学生がいるとも思えなかったので、農家のオジサンが趣味で吹いているということにした。
そのトランペットはふつうに下手だったが、気分の良い音だった。複雑な音はなく、「吠えている」といったほうが近かった。
この効率重視の色褪せた資本主義社会において、こんな音が鳴り響いているとは。はあ、音楽だ・・・。かつてダンスと音楽と、彩ることを覚えた我ら祖先よ人類よ・・・・。
といった感じだった。
もしかしたら、ホラ貝とかで吹いていたかもしれない。
珍しかったので、しばらくそれを聴いていた。その日はいまにも雨が降りそうな(そのあと降られた)天気で、あたりはずっと灰色だったが、その記憶に、きいろだかオレンジ色だかで着色が施されるのは時間の問題だ。まあ、だいたい、夕焼け色に染まるんだよ、こういうのは。
前に、有元利夫というひとの、没後30年記念らしい画集を購入した。土臭く、まどろっこしい絵で、実際に見たことはないが、その画集だけを見て好きになった。この絵の場面には、まさしくこんな、まどろっこしいタイプのトランペットの音がどこかの高台から鳴っているんだろう。
少し大げさだが、私にとっては「神秘的」な体験だった。
そこの農家のオジサンがリサイクルショップで安く売っていたのを見つけて、それではじめてバンド仲間なるものと出会い、先日演奏曲を決めて、これを練習しようと思ったが、家で吹くと妻と娘にうるさいと言われるので、半ば仕方なく場所を見つけて吹いていただけだとしても、私は私によって、その体験を「神秘」たらしめているのだった。
そう思うと、私の心はわりと生産的に働いている。
散歩の話はもう少し続くが、長くなるので、後日に引き継ごうと思う。
エッセイ
ただ文章を書くために、文章を書いていこうかなと思います。