いえすさん
アルバイト先に、とても素敵な女性がいる。
そのひとは、歳は自分より下で、勤務先では、先輩にあたる。責任感がつよくて、でも明るくて、お茶目で、とってもチャーミングだ。どうして彼女が魅力的なのか、考えてみたのだが、いや、考えてはいないのだが、ひとつ分かったことがある。
彼女はなにも臆することなく、「思い出をつくろう」と言うのである。
なんだかその言葉のうらで、半ば、人生の時間という巨大な虚しさを認めていて、そのうえで、そう、言っているように見えた。
彼女は関わり合いのあるひとの、誕生日やお祝い事を抜かさなかったし、何ヶ月遅れてでも機会があれば祝おうとした。企画事にはいつも一番積極的に関わっていた。
巨大な空腹感を、どうやって誤摩化すか、それとも貪欲に満たそうとするのか、その対応の仕方が、ひとの「性格」と呼ばれるものなんだと思った。私なんかは、毎日ちょっと湿気たツラをすることで、イーブンにしようとしているが、彼女のそれは、いちばん正直で勇気あるもののようだった。ボツボツと空いているたくさんの穴を、ぎりぎりのところで躱しながら、走っている。
勇ましいけど、切ないような、かなしいような、でも捨てることが出来ない最後の希望の光みたいに、尊いのだ。同時に、そのはりつめた細い光が、今にも切れそうで、危うい。その危うさがまた、魅力なんだろうとも思う。
そのひとの誕生日は、クリスマスなのだ。
やっぱり、ってな具合である。
家の風景
撮影: 母
課題:「実家」をテーマに平面構成をしなさい。
モチーフ:「犬」「百合」「居間」「座布団」
遠近法的世界観
7/10は参院選の投票日である。自民・公明などは、憲法改正を掲げている。慎重に選ばなければならない。
7/9はバイト先で、地元の祭りでの店頭販売に使う飾り付けを、みんなで作る日である。
大学の単位は、めちゃくちゃ残っている。あと2年ぐらい通うと思うと億劫で仕方がない。
今日になって初めて蝉が鳴くのを聴いた。猛暑にやっと夏がついてきた。今から夏が終わるのを思ってかなしい。(往来、夏が終わる日が苦手である)
フランスの建築家の講演を聴いてきた。いまはミニマリズムの考え方が主要になってきている。豪華絢爛は流行らず、財産を持たないことが正義であり、自己表現は重要ではない、伝統と景色の中で、ちっぽけで謙虚なやさしい建築。その文言、その態度。
バイト先では新人さんが増えて、責任が大きくなった。時間内での仕事ではあるけれど、もっと仕事が出来るように、新人さんにきちんと教えられるようになりたい。
夏になって、無駄毛が気になる。良い脱毛法はないものか。脱毛サロンに通うには高すぎるので、セルフケアがいい。
可愛がっている犬がもう、8歳である。いつまで生きるだろうか。死んでしまったあとを考えると寂しい。
そういえば四年後は東京オリンピックだ。観に行きたい。でもそもそも四年後に出来るんだろうか?競技場はどうなってるんだろう。
大学の課題が追いつかない。今まで散々サボりまくったので、正直やばい。
夏のセールがやっている。今のうちにサンダルが欲しい。
じりじりと、1日1日が過ぎている。毎日毎日新聞が届く。世の中のことも、未来のことも、デザインという神秘のことも、自分と、自分の身体と、自分の小さな関係のことも、あの人のことも、同時にじりじりと経過していく。いつ失わないかとびくびくしながら、じわり、じわりと経過していく。
何かを忘れ、忘れていることも忘れ、昼間の喧騒に身をまかせると、思い出したように夜がきて、昼間のやかましさを、すっぽりと包んでしまう。朝が来て、昼になり、また忘れ、夜がきて、夜が明けて、忘れては、思い出し、忘れては、思い出す、毎日これを繰り返す。毎日これを繰り返している。
眠れない
お、お、お、おそろしい。
眠れないぜ。
自己満足で申し訳ない。
眠れないおそろしい!
明日死んだらどうしようという念のようなものが止まらない。
あー!
あ、あ、あ、あー!!!
情け無いくらいに死にたくない!!!!!!こんなこんな安全が保障された国でも交通事故とか!なんか!あるし!と思って!おそろしくて止まらない!眠れない!眠れない眠れない眠れない眠れない眠れない眠れない!!
ふーーー!!!!
寝よう。
N山先生
そういえば、
そういえば、
穂村弘さんの「世界音痴」の表紙の写真を見ながら、誰かに似ていると思ったら、高校時代の数学の先生に似ている。先生の方がだいぶ、野暮なおじさんだったが。。
頭のおかしい、心がひねた先生だった。数学の先生なのに、日焼けしていて、腕が太くて、筋肉質で、ゴツゴツしていていた。それでいて、白衣に、フレームの大きな古いデザインの眼鏡という、インテリ風の格好だった。
なにが「おかしい」印象を与えていたのか、考えると、彼の「道徳」が歪んでいた。彼が生徒に与える無用な攻撃があった。彼は、彼がホームルームを受け持つクラスの悪口を、別のクラスで何度となく言うのであった。「君たちは賢いなあ。うちのクラスの連中には、こんな問題分からないからね。」といった具合に。
「平等」「多様性」「個性」の、「尊重」。これが私たちが受けてきた、道徳教育の建前だ。実際には、レベル別に「クラス分け」があったし、何度となく受ける模試には、順位があった。それはそれで、別に良かった。だが、「道徳的には」違反である。
その先生は、みんなが言わないうちに受け入れている「レッテル」を、積極的に、分かりやすく生徒に伝え、助長した。そして、先生は、男子より女子が好きだった。特に頭が良くて顔の可愛い女子を気に入っていた。その姿は清々しかった。
彼が担任をしているクラスの、特に男子からは、明らかに不評だった。だが、そのクラスより「上」のクラスの女子からは、あだ名をつけられ、気に入られていた。
かくいう私も、その先生のことは嫌いじゃなかった。
だから、私の道徳も、口には出さないけれど、例外なく、歪んでいる。それはそれで、別に良かった。ただし、その道徳は、例外なく、自分に対しても、大事な人に対しても、向けられている。